> 避難所での生活 | 老後生活

あの日から10年

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災害

テレビや新聞で東日本大震災の特集が目につく。

忘れてしまっていることも多いが、今年初めて知ることもあった。

あの時までは、災害のニュースを見ても気の毒にと他人事だった気がする。

避難所で、炊き出しの列に並んだ時自分が被災者なんだと改めて思った。

目の前で見た信じられない光景に、うそでしょうこれは映画?

町は津波に飲みこまれ,押し流され破壊された。電柱さえもない。これが現実だ。

帰る家もなくなってしまい、避難所生活2か月が始まった。

あの日 また帰ると思って戸締りをして鍵をかけて出た家。

皮肉なことに、流失した家や車の もう使えないカギだけを持つ人が周りに何人もいた。

翌朝 運動会の時に引く白線で、上空から見えるように校庭に大きく書かれた SOS

外からの情報のない不安な時間が続いた。安否不明 後にニュースで町民の半数と連絡がとれなかったと知る。

何日かして、やっと通じた電話で初めて実家の両親が津波の犠牲になったことを知った。

実家も津波で流失した。あの晩体育館で、自宅がなくなってしまったのだから これから

当分実家に避難させてもらおうと勝手に思っていた。

それがまさか実家まで...すぐに行きたくとも道路も通れない車もない。

伯母も姉も妹も、安否のわからなかった私が生きていたことは喜び安心してくれた。

被災地に限らず日本中が大変だったのだろう。余震 停電 断水 食料不足 ガソリン不足 etc

あの震災で 自分はどれ程たくさんの支援を受けただろう。

着の身着のままの寒さと空腹は支援物資や炊き出しに救われた。

麺類 汁物  丼もの カレーライス いろいろご馳走になった。

わざわざ遠い所から私たちのために?

本当に有り難いと思った。身も心も温まるとはこういう事なのだろう。

最初は、毛布 タオル1枚づつ 靴下1足とか。

タオルがあっても水は飲むくらいなので、顔を洗ったりはできなかった。

そのうち下着や着替えの服ももらった。

やがて自衛隊が来て暖かい食事を提供してくれた。お風呂にも入らせてもらった。

体育館での毎日は、することもなく長かった。夜は発電機の薄暗い灯りが付いていた。

朝になり 誰かがカーテンを開け明るくなって また一日が始まるんだと思った。

プライバシーなどまるでない。

見られたくないのも、見たくないのもおかまいなし。

今は、避難所の在り方もいろいろ改善されてきているようだけれど、

あの時は、あれで仕方なかった気がする。なにもかもが想定外。

もともと 多人数で生活するための場所ではない所なのだ。

他に行くことができないから避難していたわけで。(家や車の流出 道路の寸断など)

特に、お年寄りの方やその家族にとっては過酷な生活だったと思う。

夜中にトイレに行くのも、寝ている人を踏まないように薄暗い体育館の中を進む状況。

教室も開放されていたが、児童と一部の保護者など。体育館にも老人は結構いた。

何日かして、身内の人が迎えに来て避難所を出て行かれるのを見てほっとしたのを思い出す。

今日スーパーで見て懐かしくて買って来たパン。

これは避難所で何日間か食べていたものだ。もう少し小さかった気がする。

救援物資として送られてきたものだったのだろう。積まれた段ボール箱に書いてあった。

1日2個貰っていたと思う。山崎パンさんありがとう。

ほかにもいろいろなものをもらったが、印象に残っているのは、

支倉焼 それからパックに入った2個のおはぎ。

この頃は、どこでも買い物も思うようにできなかったようだが、それが避難所に届いた。

売れば儲かるのに、被災者に贈る。非常時にこういう決断即実行できるのはすごいと思う。

アメリカ軍のトモダチ作戦にも感動した。震災直後から活動開始。 仙台空港を復旧させ、

三陸沖に空母を洋上基地とし、交通網を遮断された被災地に物資を運び救援活動も行った。

多数のアメリカ兵、航空機 艦艇 などが投入されたそうだ。

まさかの時こそ真の友と言うが、困っているとき直ぐ駆けつけ助けてくれたアメリカを

忘れてはならないと思う。もしあの時トランプ氏が大統領だったらどうしただろう?

今、その時の空母の乗組員などが健康被害と被ばくの可能性で東京電力に損害賠償や

治療費の裁判を起こしているのを知った。

因果関係は証明できないというけれど本当はどうなのだろうか。

避難所は規模が大きく多人数だったので、ニュースでも報道され支援物資も届くようになった。

私たちの避難所は支援が届いたが、届かなかったところもある。

支援物資も、他の人は貰ったのに自分がもらえなかったらあまりいい気持ちはしない。

だが、すべての人に平等に分配するのは難しいと思う。

物やお金だけではなく、仮設住宅に入居してからもたくさんの人達からいろいろな支援をうけた。

結局 体育館で42日間過ごし 二次避難で隣町へ分散避難することになり町を離れた。

あの時家を流され、たまたま一時期体育館で一緒に過ごした人達。

家族でも親戚でもなのだけれど、同士のような連帯感があった気がする。

なんだかとても懐かしい。

語り部などはとてもできないが、すこしでも思い出せるうちに書き留めておこう。

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